後援会出席の皆様 お疲れ様でした。
後援会終了後、販売スタッフの片づけを手伝っていたら既にバスが発車したとか
やっちまった~感が強かったが…ジョイフルまでは行かないとか
えっ?…そんな…
幸い、スタッフがジョイフルに向かうとの事で便乗させて頂きました(;^_^A
その車中で、支援って?…
どれが正解と言うことがない…との話に
支援は身近過ぎて気づかない。毎日、皆、他者との関りで何気なくやっている
誰人にでも、障がいが有る無しに関わらず生活の中に息づいている
例えば
棚に手が届かい人にそこにある物を取って渡すのも
手が届くように踏み台を置くのも
どこに踏み台があるかを教えるのも
そこよりも低い所に同じ物があると声を掛けるのも
どこに同じ物があると見てわかるように表示しておくのも…支援
その中でどれがその方に合うのか、提供していくのは支援者(支援する側)の配慮。
いつも同じ支援を続けてよいかと言うと
時、場面、状況、その方の状態により支援を変化させなければならない
その方の状態により短期・長期的を含め支援は変化する可能性をはらんでいる
故に、これが正解とか、最高はない。常に “ 最善 ”
これは、基本的に介護・介助支援も含めて言える事です。
支援者もその方が出来ることまで先走ることもありますが
そこはぐっとこらえて
出来る事はやって頂く
それがその方の機能の維持や出来ることを伸ばす、新たな成長を促す支援に繋がる
気を付けなければならないとすれば
待てないとの想いから
「その方がやるよりも自分がやった方が丁寧だし、ずっと早い」と思い
やり過ぎない事でしょうか
支援される側も支援する側も
“ 待つ ” 気持ちの大切さが、大事でしょう
そんな私も『時々、お節介が過ぎる』と反省もしばしば((笑))
6月30日 18時半より 八戸市総合福祉会館で
八戸自閉症協会主催の自閉症支援者セミナーがあります。
本年は支援についての話が充実されており、興味のある方は参加して下さい。
事務局の木村さんより、当日参加も受付ると賜っております。












なるほど、となると行動すべてが支援となるのですね。そうするとあらためて支援施設と言うのも不自然になってくる気がします。それで思い出したのがボランテアの事です。
ボランテア活動がある事自体がおかしいと言うものでした、本来人間は助け合い補い合い暮らす動物だ、暮らしの中にボランテアが根付いているのに取り立ててボランテア活動を唱えるのはおかしいと、ならばボランテアと言う言葉を無くす為にボランテア活動しようと言う。あるフォーラムの一コマです。支援とボランテアの違いがあるのかないのか?。
クルーさん
コメントありがとうございます
残念ながらフォーラムに参加できなかった為、全容は判り兼ねますが、僭越ながら個人的見解で言います。
支援の中の一つとしてボランティアがあるのでは?と、違いは差ほどないと思われます。
ボランティアは無償性、自発性、利他性、先駆性という要素で成立しており、義務的ではない。支援は広汎的で多様性があり義務的依存も無視できないかと思われます(;^_^A
御存じでしょうが近年は、有償ボランティアも存在しており、社会的に無償性は追及しがたくなって来ている実情もあります。(ツッコミたくなるとは思いますが)
また、人間は刺激無くしては考えることが退化し、題目が無ければ自分の身に置き換えて考えることも薄い?ので、支援施設と言う名称は変われども未来永劫に存続していくと考えられます。根拠はジョイフルに通所している方々を観ていれば理解できると思われます。
私は支援という言葉をなくそうとは思いませんが、その言葉をわざわざ使わなくても済む世の中には賛成です。
シビアな問題だけに文面だけで意図が伝わるとは思っていませんが今後ともよろしくお願いいたします。
GUSSANより