フォーラムの会場から突然の質問。障害者の呼称に対する個人的な違和感の理由を述べた方がいました障害者の「害」は障害者に対しふさわしく無いと言う事であり皆さんの考えを聞きたいと言う質問でした。会場は農業と福祉の連携がテーマでありその質問に驚いた。しかし、それに対しコメントに立った方から当事者(障害者)本人がその呼称に問題を感ずるのであれば判るが健常者あるいは第三者が言う事では無いのではと〆めくくった。以前この問題は障害者を持つ親からの訴えで世論に波及した。私の子は害がある訳でもないのに害をつけた呼称はふさわしく無いから改めるべきだと。その内文面では害が、かなで障がい者となり発言も改められ障害を持った方へと表現される様になったのです。しかし、その事でうっかり障害者と表現すると怒りのバッシングにあい委縮してしまう人達を見て私は特殊世界を感じておりました。それは障害を持ったと言う極度の被害者意識であり差別対抗の挑戦に見えて来たのです。至って明るいイメージの障害者達又支援者である関係機関もこの特殊世界に染まって行く様な違和感を感じたのですそれは日本の歴史から来る部落民等に見られる被害者意識とも言える閉鎖的な集団化です。
私は障害者と表現する事で自分の立場が彼等ともっと身近になると思っています。家族どうしが言葉を選ばず自由な表現する様に。勿論他人に配慮する事も大切です。しかし漢字をかなにしたからと言って事実は変わりません。大切な事は彼等に優しく寄り添う心にあるのです。それが無ければ表現の自由はタブー化するでしょう。見て下さいパラリンピックの表現と自由を障害者の世界は大きく変化しているのです
かつて老人と言う表現に抵抗感があり老春、そして御歳を召した方、お年寄りそして高齢者と変化しました。老人と高齢者とはどんな違いがあるだろう。そんな中に老人クラブは健在に存在する現実。












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